「上町台地」は大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地です。
北部は難波宮跡、大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、大阪上本町駅付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって阿倍野区周辺を経て、南部の住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所です。
約7000~6000年前の縄文海進の時代には東に「河内湾」、西に「大阪湾」が拡がる半島になっていました。古代の頃の「上町台地」も海や湖、湿地、河川に囲まれてしました。
「大阪湾」側の台地の下の微高地は「難波砂堆(さたい)」、北側の微高地は「天満砂堆」と呼ばれる砂の堆積地で、陰影段彩図では緑色の微高地となっている。
船場、天満など、大坂における江戸時代より前からの町は砂堆上に発展しており、後に「古町」と呼ばれています。
神武天皇の時代、現在の「大阪城」の場所に「生島神」「足島神」の両神が祀られたのが「生國魂神社」の始まりとされています。
「大阪海岸低地」には現在も「堂島」「中之島」「福島」「江之子島」など「島」のつく地名が残っております。
「上町台地」の西端は「大阪湾」に沈む夕陽を望める場所であり「夕陽丘」という地名もございます。
戦国時代に築かれた「大坂城」は、「上町台地」の北端部分に位置し三方は川や湿地と、天然の要害で囲まれていました。
唯一、南に続く台地面が弱点とされ、大きな「空堀」が掘られたほか、「大坂冬の陣」では出城の「真田丸」も築かれ守りを固めていました。
「大坂冬の陣」では徳川家康、「大坂夏の陣」では真田信繁(幸村)が本陣とした山でもある。「河底池」の南側では、1895(明治28)年から住友家が本邸建築のため、敷地の買収に取りかかり、1908(明治41)年には家屋の建築、庭園の造営が一通り竣成した。
その後、1915(大正4)年に移転してきているが、1925(大正14)年に大阪市に寄付され後に「天王寺公園」の一部となりました。
現在、本邸庭園であった「慶沢園」は公園施設として公開されているほか、邸宅の敷地は「大阪市立美術館」となっています。
上町台地は大阪市内の中心地でありながら、日本の歴史も感じさせる街です。